オナニーしないだけの人

禁止するんじゃない、しないだけ。

32.オナ猿、時々禁欲者。

どうも、オナ禁しかしない人です。
今回の記事は

「どっちに転んでも私の人生という線上」
という話です。

 

 

本題

オナ禁の日数を重ねていくにつれて思うことは、以前80日間の禁欲をした際にあった憂鬱さだ。以前の記事でも書いたが、あの時は本当に
「なんでこんな楽しくもないことをやってるんだろ」
という気持ちで一杯だった。その心労と苦労に応じた見返りもないし。

 

そして今も似たような不安を抱えていることは否めない。その時と違うのは、今回はただオナ禁をしているだけ、ということだ。だからかかるストレス自体は控えめ。それでも、オナ禁をすることによって叶えたい願望自体はある訳で、それがオナ禁によって叶わないと分かった時、私はオナ禁を継続するのだろうか。

 

いや、普通に考えれば、オナ禁に何の効果も見られないという結論に至った時点で辞めても辞めなくてもいいのだ。ただ自分の欲望との兼ね合いという意味では辞めるのが自然っていうだけで。

 

仮にオナ禁を辞めたとして、それに対して今思うことは、オナニーすることを自分に許したとしても、今更そんな人生もなかなか虚無だな、ということだ。実際ここ2,3年ほどオナ猿をやっていた時に思ったことは、
「オナニーしてようがオナ禁してようが、私の人生何かしら欠けている」
という感覚だった。オナニーして満たされるならともかく、感じるのはそれでいて尚、虚無感だ。

 

そう虚無感。いや虚無感というより実際虚無なのだ。生物としての本懐を果たさないと決めた時点で、私の人生が消化試合になったということは紛れもない事実。人は自分のやっていることに何かしらの意味を持たせようとしがちだ。実際意味が伴っていることもあればそうでないこともある。確かどっかの捕虜収容所or心理学の話で、人間に穴をスコップで掘らせ、その掘った穴を当人に直ぐに埋めさせるという作業を繰り返しやらせる。するとその人間は精神的に病んで死んでしまったというエピソードがあったはずだ。理由として考えられていたのは、自分がやっている作業に意義や理由を見出せなかったから、というものだったはず。

 

そんなエピソードから考えると、日々のオナニーを人生における意義として生きていくというのもそこまで悪いものではないような気がしてきてしまう。いやオナニーに限らず人生において何かしらの娯楽を生きる意味として据えることは、仮それが当事者に対して悪い影響を与えるものだとしても、少なくともそれすら見失ってしまった私の人生よりかは幾分か人間らしくはあり、よっぽど社会的な生物らしい。

 

もちろん「オナ禁しようがしまいが何も変わらないから、オナニーしまくるわ」でも構わないといえば構わないのだが、問題は他にやるべきことがあるのにそっちのけでオナニーに勤しんでしまうことだ。尤もオナ禁したからと言ってその”やらなくてはいけないこと”に着手できるかと言われれば、必ずしもそういうわけではないが。本当にやりたくないことは、布団に入ったまま天井をボーっ見て時間を潰すという何の生産性も無いようなことを好んでやってしまうくらいには、取り掛かれないものだ。

 

オナ禁することで人生自体に意味を見出したい、何か目標を持ちたいというのが、私のオナ禁に投影した最大の願望なのかもしれない。きっとオナ禁に今はまだ希望を見ているのだ。溺れる者は藁をもつかむ、ではないけど。無い現実より欺瞞に満ちた希望のほうが生きていく上では多少の足しになるんだろう。


もう一つ、オナ禁をした上で効果がないと断じることは、いま私が抱えているトラブルの原因として考えうるものを一つ排除することができる、というメリットがある。つまり問題解決へ一歩前進できるということだ。その程度。

 

 

終わりに

時々考えてしまうんですよ。今回みたいなことを。
それこそ何の生産性もないことを延々と、頭の中で。
でも同時に、この行為こそ私が私の人生を今やっていると
最も感じられる瞬間でもあるんです。
真剣に自分と、人生と向き合えている時間だから。