オナニーしないだけの人

禁止するんじゃない、しないだけ。

12.オナ禁という呪い

どうも、オナ禁しかしない人です。

皆さん「知らぬが仏」という言葉をご存じでしょうか。

今日はオナ禁とこの諺の関係性というものを

私の体験を交えながら書いていこうと思います。

 

本題

 皆さんがオナニーをし始めたのはいつ頃だったでしょうか。私の場合、中1の頃だったと記憶しています。それの時に初めてにオナニーの快感を知ってしまった私は頻度として1日1回程度オナニーをやり始めるのですが、そんな平和な時期が続いたのは僅か1年ほどでした。中2の頃に遂に出会ってしまったのです。オナ禁と。それまで日々の楽しみ、癒しでもあったオナニーは、オナ禁を知ってしまったことでただの悪習慣としか思えなくなってしまいました。それ以降はみなさんご存じの通り性欲及びオナニーをしたい欲との戦いを8年ほど繰り広げているわけですが…。

 

 その8年の間に一体私は何度オナ猿に戻ろうとしたか。「こんな苦しいだけのオナ禁なんてもう終わりだ。金輪際挑戦しない」と思い、毎日オナニーを欠かさずにやることができたのは期間としては2週間が最高でした。8年間でたったの2週間。オナ禁に成功していた時間よりはるかに短いです。

 何度オナ禁を辞めようと思っても2,3日すると嫌なことが起きる度、「もしかしたらオナ禁していないから?」という思考がチラつき始めます。そして結局オナ禁にまた挑戦している。そして、また2度とオナ禁なんかしないと思ってリセット…。そんなことばかりを繰り返してきました。

 

 傍から見れば狂気の沙汰です。やりたいならやる、やりたくないならやらない、というのが基本的な人間の感性です。しかし私はどちら側にも付けなかった。必ずどちらかの状態のときはもう片方の状態を欲してしまう。まさに彼方立てれば此方が立たぬです。

 

 そんなフラフラしたまま生きることが嫌で、さっさと片づけてしまいたいと思い、また私はオナ禁に性懲りもなく挑んでいます。以前も書きましたが、私にとってオナ禁の向こうに欲しているものは殆ど無いのです。ただ私は知りたい。8年間私の人生を振り回し続けたオナ禁の真実を。それが他人にとって無意味な、汎用性のない結論だったとしても、少なくとも私にとっては最大限尊重すべき私の結論・主観であるから。だからもうこれで終わりにしましょう。今回が私の人生の中で最後のオナ禁になることをただひたすらに欲しています。

 

 そんな決意を固めたのに、ふとした瞬間に思ってしまいます。もしオナ禁に出会っていなかったら私は一体どんな人生を送っていたのだろうかと。もし最後に出した自分なりの結論が「オナ禁に意味はない」というものだったら、それを私は受け入れることができるのか。知って尚オナ禁固執してしまうのではないか。そんな考えが頭を過る度に思ってしまいます。あぁこれは呪いなんだな、と。

 

 

終わりに

如何だったでしょうか。無駄にポエムっぽくなってしまいましたが、私の頭の中に1年くらいあった思いです。偏見かもですが、オナ禁とリセットを何度も繰り返す方は程度の差こそあれ、この”呪い”に付きまとわれているのではないでしょうか。ある意味羨ましいです。1週間のオナ禁で見切りをつける人、オナ禁を妄信できる人、そして1年以上オナ禁を継続できている人が。私もどちらかと言えばオナ禁に夢見ているきらいがありますが、それももう醒めつつあります。願わくば、全てが終わったらこの呪縛からも解放されますように。

ご縁があれば、また別の記事で。